筆者「Umekin」さんのご紹介


こんにちは!
地球まる(ちきゅまる)柳沢です。

これから、アジアを数多く訪問している「Umekin」さんに
現地の様子をレポートして頂けることになりました!
経済の豊かさ=心の貧しさ、経済の貧しさ=心の豊かさなのかなぁ・・・と考えてしまう事もしばしばです。

今後、月に1度の更新になりますが、人々の生活・笑顔などお楽しみください
そして、日本との違いや色々な事を感じてくだされば幸いです。


「Umekin」さんからのご挨拶です↓

年に何回か、アジアの国々を旅しています。

観光地へも行きますが、それよりも、現地の人々の暮らしや町の様子に興味があり、歩き回っています。

生活は決して豊かではないですが、明るい笑顔の人々…
こんな様子を少しでも紹介できたらと思っております。

・働く子供たち〜カンボジア編〜

アジア各国では、大人以上に働いている子どもたちが多い。あちこちで、ふつうに見かける。
カンボジアでは、女の子が肉体労働している姿も多く見た。


働く子供たち〜カンボジア編1〜

↑ ここは、北西部のバッタンバン。あるバスの乗り場だ。

この子は、おかずの入ったパンを売っていた。どこに行ってもたくさんいる。物売りは、大人も多い。
たいていは、「買って!」と強引に言ってくるのだが、この子たちはただニコニコと写真に写っていた。

しかし、バスが来るたびに走っていって、降りてくる乗客に声をかけていた。もちろん、乗る客にも声をかけている。
食べ物だけに、売り切らないとたいへんだ。


働く子供たち〜カンボジア編2〜

↑ バッタンバン郊外にある調味料の工場。結構大きかった。
小魚を塩漬けにして発酵させたプラホックを作っている。
大人はいるが、10代中盤に見える子が多く、小学生も働いていた。みんな女の子である。
黙々と仕事をしているが、カメラを向けると、みな笑顔になる。手を振ってくる子もいた。


働く子供たち〜カンボジア編3〜

↑ これも、バッタンバン郊外。ライスペーパーの工場である。工場といっても、個人の家でやっている。
大量の米を研いでいるが、全てこの少年が一人でしているようだ。よく働いている。
奥には、母親らしき人が見える。忙しいにも関わらず、笑顔だ。


働く子供たち〜カンボジア編4〜

↑ これは、コンポンチャムで。女の子が、番線を曲げたり切ったりしている。手前の子も女の子だ。
画像には写っていないが,左横の工場の前なのだ。

カメラを向けると、やはり笑顔になった。仕事中なので、イヤな顔をするかと思ったのだが。


働く子供たち〜カンボジア編5〜

↑ 前の画像のすぐ近くだ。工事現場で休憩している少年たち。この子たちも、たいへん若い。やはり笑顔だ。
重労働で疲れているはずなのだが…


このように、あちこちで働いている少年少女を見かける。
また、小さい兄弟の子守をしている子も多く見る。どちらにしても,よく働いている。
大人たちも一生懸命だろうが、子どもたちの方が、より熱心に働いているようにも見える。

日本の子どもたちや若者たちに見せたいものだ。

Copyright(C) 2007 Umekin. All Rights Reserved.

連載:アジアを行く 全ての記事を読む⇒

・ラオスに残る不発弾

 ラオス北部のシェンクワン県。有名なジャール平原への観光の拠点になる町である。
今日は不発弾についてだ。
爆弾跡
↑首都ビエンチャンから、ラオス航空のATR−72に乗り、シェンクワン空港に向かう。
高度が下がってくると、平原のそこら中にクレーターのようなものが多数見える。
インドシナ戦争(ベトナム戦争)時にアメリカ軍などが投下した爆弾の跡だ。
 その総量は、約300万トン近くもある。北ベトナムへ落とされた爆弾の総量の2、3倍もあるのだ。
不発弾と言えば、カンボジアの地雷が有名だが、それに匹敵する大量の不発弾が
今なお山中に眠っているここ北部ラオスのことは、あまり知られていない。
実は、ラオスは世界で最も多くの爆弾が投下された国なのだ。
 ここに投下された爆弾は、あのクラスター爆弾だ。
アフガンやイラクなどでの、クラスター爆弾の不発弾問題は有名だが、
米国が初めて実戦で使用したのが、ここラオスなのをご存じか?
シェンクアンの平原
↑そのクレーター状の穴は、大きさの大小はあるが、実際に人と比較してみると、
よくわかると思う。
 インドシナ戦争以来25年以上も経った今も、不発弾により年間100人ぐらいの
死傷者がある。
100人というのは統計上の数字なので、実際はもっと多くの人々が被害に遭っている。
体が不自由になった人も多い。
爆弾は、通称ボール爆弾、地元では「ボンビー」と呼ばれている。
 不発弾の処理には、多くの国やNGOなども協力し、撤去や援助にあたっているが、
まだまだ多く残っている。
↑これは、ジャール平原にあった看板。ラオ語と英語で書かれている。
未撤去の不発弾が多くある警告だ。道を大きく外れると危ない。
カンボジアの「DANGER MIANES」(地雷危険)と同じようなマークだ。
ボール爆弾
↑ クラスター爆弾だ。
いろいろなサイズがあるが、私が泊まったゲストハウスに置いてあったもの。
これは、小さめである。私の身長は170cmである。
爆撃機からこれが投下されるのだ。この薬莢の中には野球のボールぐらいの
小爆弾が詰まっている。
さらに小爆弾の中にはパチンコ玉ぐらいの鉄球が無数に入っている。
これが地上で爆発して飛び散るのだ。
ボール爆弾
↑ この小爆弾が、不発弾となり、人々を苦しめ続けてきたのだ。
コングケオ・ゲストハウス&バンガロー

↑ ゲストハウスの食堂兼ロビーだ。暖をとるために薪をくべるのに利用している。
人々は、その悲劇をもたらした爆弾の薬莢をうまく利用して生活しているのだ。

 外国人へ少しでも知ってもらおうと、啓発ビデオがあり、テレビで流されていた。

ボール爆弾の塀

↑ ボール爆弾が、民家の塀として利用されている。
そばには、山と積まれていた。手前にいるのは、飼っているブタ。

ボール爆弾が土台の家

↑ このように、家の土台にもなっている。うまく工夫して使っているのだ。
ボール爆弾の鉢
↑ これは、ネギらしきものを植えている。プランターとして利用されているのも見た。
シェンクアンの田舎の家
↑ 家の軒先にも、爆弾がふつうに置かれている。
上に乗っている子は、これがその昔、人々に悲劇をもたらしたものだとは
知る由もないだろう。その悲劇は,今も続いているのだが…
 また、薬莢を利用するだけではなく、鉄屑としてベトナムなどへ売っている人もいる。
人々は、逞しく生きているのだ。
 ここでは、まだ “戦争” は終わっていないのである。
Copyright(C) 2007 Umekin. All Rights Reserved.

・バングラデシュ バティアリの船舶解体場

 世界には多くの大型船舶やフェリーがあるが、老朽化した船体は、どこの国で多く解体し
ているかをご存じか?昔は、日本などでもたくさん解体されていたが、じつは、現在ではその
ほとんどをインドとバングラデシュで解体しているのである。今の日本でも工場があるが、こちら
とは全く違うシステムだ。

解体場には、世界中から引退した大型の船舶が運ばれてくる。そして、満潮の時に一気
に砂浜へ突っ込むのだ。そういった船が多数並んでいる。大型のウィンチもある。

私が見たのは、バングラデシュのチッタゴン郊外のバティアリだ。

大通りからしばらく海岸に向けて狭い通りを入っていくと、何社かの解体場が並んでいる
場所がある。その前の通りには、ちいさい食堂などが並んでいる。
しかし、雰囲気はかなり悪い。

「あまり関わらない方がいい。治安が悪いので、気をつけて!」と、連れてきてくれたガイド
役のバングラ人は言う。このガイド役というのは、ホテルのボーイだ。休暇届を出して、オー ナ
ーに内緒でガイドしてくれているのだ。要するに、隠れたバイトだ。

この国は、まだツーリスト産業があまり発達していないから、こんなことがある。

 本来、一般人は解体場の中には入らせてもらえない。立ち入り禁止だ。さらに、ジャーナリ
ストやマスコミ関係は極端に敬遠されるらしい。

 ガイドが言う、「カメラを隠せ!」。そして、固く閉まった門の前で交渉をしている。しばらくし
て、「OKだ!」門が開き、中に入る。
事務所の建物を過ぎ、死角になったところで、「カメラはOK。でも、事務所から見えるとこ
ろでは撮影禁止だ!」と言う。その事務所の中から出てきた兄ちゃんがガイド役でついてき
た。この兄ちゃんは「撮影OK」ということだった。あちこちを撮らしてくれた。自分も喜んで写
っていた。でも、やはり「事務所から見えないように!」と言う。


こんな大きなフェリーが解体されていく。労働条件は劣悪で、危険極まりない。十分に
抜かれていない燃料の海洋流出。さらに、バーナーを使っての解体で引火の恐れがあ
る。また、多数の有害物質、アスベストなど多くの問題があるのだ。


大きな船体が、こんなになるのだ。よく、あんな巨大な船舶を大きな重機もなくバラして
いけるなと思う。

きちんとした作業服もなく、はだしで歩き回っている人さえいる。考えられないことだ!
ささくれ立った金属の鉄板やパイプ、破片などが多数散らばっているのだ。ケガはしないの
か!?


バラしたパーツが、バラバラに散乱している。バーナーで焼き切っている。焼くところをわざ
わざ見せてくれたりもした。さらに、この周辺を軽装で歩き回っているのだ。
給料も決して高くない。年間何百人も亡くなっているらしい。それでも、黙々と働く人々 であ
る。


こんな潜水艇もあった。反対側には「ASIAN TIGER HONGKONG」と書いてあっ
た。


バラした綱板を、みんなで運ぶ。肩に乗せて歌を歌いながら運んでいる。

かなり重そうだが、大勢で歌いながら運び、重さを感じないようにしているようだ。

こうやってバラしたパーツやエンジンなどを表通りの多くの中古パーツ屋で売っている。ダッカ
にも運んで売っているそうだが、ここで買う方が安い。リサイクルとしては、かなり効率がいいら
しいのだが

 現場では真剣に働いているので、撮影は嫌がるかと思ったが、みんな意外と愛想良く写っ
てくれた。

最後に、ボーイの方のガイド役が「チップ!」と言った。案内してくれた兄ちゃんにやれと言う
ことだ!一種の賄賂だ。しかし、本来は立ち入り禁止の上に、撮影まで密かに認めてくれた
のだ。これは仕方ない。

いくらかは忘れたが、そんなに高額ではない。ただし、日本の価値で言えばの話である。

 貴重なものを見せてもらった。しかし、これでいいのか?と考えてしまう光景だった

Copyright(C) 2007 Umekin. All Rights Reserved.

連載:アジアを行く 第1回から読む⇒

・どうなる?軍政のミャンマー!

 軍政に対する反政府デモから発展したミャンマー(ビルマ)の混乱。ついには、日本人ジャー
ナリストの死者も出た。発端は、燃料価格の急激な値上げと言うが、急激な値上げは以前
もあった。それまでから庶民の不満は長年に渡り蓄積してきた。民主化の運動家のアウンサ
ンスーチーさんが軟禁されているのはご存じだろう。

 途中から僧侶がデモの中心になったが、周辺国と同じく仏教国のこの国では、僧侶は人々
からたいへん敬われる存在だ。日頃から、托鉢や寄進が行われている。僧侶は、その中で
人々の困窮の様子を直に感じ取っている。それが、今回の行動にもつながっている。

 軍が僧侶に引き金を引いたことにより、民衆の怒りはさらに高まった。しかし、大量の検挙に
より、勢力が弱まっているという。情報統制も行われている。現在は、極端に情報が少なくな
っている。

↑ 今回のデモの中心にもなった寺院、ヤンゴンのシュエダゴンパゴダだ。ヤンゴン市の中心部
より北の丘にある。参道の門から上がっていくのだ。多くの人々が連日お参りに訪れている。
もちろん、僧侶もたくさんいる。


↑ 人々が熱心に祈っている。同じ仏教でも、日本などに伝わったのは大乗仏教だが、スリラ
ンカ〜東南アジアでは上座部仏教だ。拝み方も違う。

↑ これは、ヤンゴン市内中心部にある、スーレーパゴダだ。ここでも、軍と多くの人々の攻防が
あったようだ。カメラマンの長井さんも、この周辺で悲劇に遭ったと思う。
 このパゴダは、陸橋からも中に入れる。周りの建物には店も入っている。ここも、やはり多くの
人々がお参りに来ている。


↑ バゴーにあるチャカッワイン僧院だ。僧侶になるための勉強をしている若者がいっぱいいる。
今回のデモは、若い僧侶が中心になったという。こういったところで勉強していた若い僧が行
動を起こしたのだろうか。

 反対に、一部の高僧は軍部から寄進を多く受け、動けなかったともいう報道もあった。本当
なら情けないことだ
 情けないのは、軍政の支援国である利権が絡んだ中国とインドも同じだ。

↑ 修行中の僧は、このように集団生活をしている。1人分のスペースは少しだ。ヤンゴンにあ
る僧院は、軍の急襲に遭って、破壊されたところもある。


↑ 同じくバゴーにある、シュエターリャウン寝仏だ。55mもあり、1000年以上も寝ておられる。
しかし、今回の騒乱で寝ている場合ではないと思われているのでは?


↑ 南東部にある町、モウラミャインのタンルウィン川の船着き場には、軍の船がいる。治安警
察のエージェントは国中のあちこちにいるし、軍もこのようにあちこちの目につくところにいる。街
なかで、うっかりと軍や政府の悪口は言えない。見つかったら、タダでは済まない。撮影は絶
対に禁止だが撮った。


↑ 大きくはないが、砲台があり、完全な軍艦だ。これも撮影禁止だ。私が寄った川沿いのレ
ストランの近くに係留していたが、このときにここの店の関係者と一緒に飲み、いろいろな話を
した。軍が近くにいるのにも関わらず「英語なら大丈夫。」と政府や軍の批判を話し始めた。
民衆は、みな困窮し怒っているのだ。ヤンゴンでも、日本で働いていたことがあり日本語を話
す青年が、軍政について語っていた。

 ミャンマー(ビルマ)は、これからどうなっていくのかが、たいへん心配だ。

Copyright(C) 2007 Umekin. All Rights Reserved.

連載:アジアを行く 第1回から読む⇒

・目の前は隣国〜タイ/ミャンマー編〜

大陸などにある国には,川の向こうや大地の一歩向こうが隣国ということはめずらしくない。日本に住んでいる限り,その感覚は不思議なものだ。

 陸地の国境は多数あるが,今日は小さな川の国境を…
 タイ北部のメーサイ(メーサーイ)。サーイ川の向こうはミャンマーなのだ。ここは,行ったことのある人が結構いると思うが。

アジアを行く_1

↑国境に架かる橋の上からだ。ここは,ビザ無しでデイリターンができるのだ。
 右側がタイのメーサイ。左側がミャンマーのタチレク(タチレイ,タキレイなど呼び方は様々だ)川を挟んで,すぐ横だ。海に囲まれた日本に住んでいる者として,不思議な感じがする。

アジアを行く_2

↑タイ側から見たミャンマーだ。川を渡ればすぐに行き来できるが,外国人は厳禁だ。

アジアを行く_3

↑逆に,ミャンマー側から見たタイ。賑やかさは,タイの方がずっと上だ。

アジアを行く_4

↑上の画像は乾季だが,これは雨季のタイ側だ。階段まで水が溢れている。しかし,子どもたちは国境など関係なく川に入っている。どこの国もそうだが,地元人だとかなり自由のようだ。これも信じられないが,一般の人々は古くから国境などにとらわれずに生活してきたのだろう。

アジアを行く_5

↑ミャンマー側から見た,国境に架かる橋。ここを通って,両国を行き来するのだ。両国の施設の大きさを比べると,やはりタイの方が立派だ。

アジアを行く_6

↑橋の近くはマーケットになっている。国境だけあって,両国のものや中国のものも並ぶ。じつにいろいろなものが並んでいるが,日本には持って帰れないものも多くあるようだ。店だけでなく,カゴに商品を入れて売り歩く人も多い。
 ここでの通貨は,ミャンマーチャットだけでなく,タイバーツが使える。国境特有の混沌とした雰囲気だ。

アジアを行く_7

↑この民族衣装を着た人は,商売をしているのではない。ふつうの客だ。買い物をしに来たのだ。あちこちで見かけた。ふだんから,こんな格好をして暮らしているのだろう。タイでも,山間部へ行くとめずらしくはない。

アジアを行く_8

↑タチレクの町を東へしばらく進み,タイ側へ歩いてみた。こんなところに橋が架かっている!ここから越境できるとは聞いたことがない。だが,この橋の方が立派だ。向こうでは,兵士らしき人が座っている。おそらく,地元人しか通れない橋だろう。ミャンマーで,無用なトラブルは禁物だ。近くまで行ったが,引き返した。
 この前のデモ騒動で言うまでもなく,この国では,もともと軍人や軍の施設,警察,大きな橋や空港,港などは撮影禁止なのだ。見つかると,タダでは済まない。

 川越えだけでなく,陸地で国境を越えるのは,なんとも不思議な感じがするが,大陸には,あちこちに越境ポイントがある。島国日本では味わえないこの感覚を,1度は経験されては?

Copyright(C) 2007 Umekin. All Rights Reserved.

連載:アジアを行く 第1回から読む⇒

・東ティモールよ、どこへ行く?

東ティモール。様々な経過を経て'02年5月にインドネシアから独立した。訪問したのは'03年8月。情報が古くなるが,一般の市民の現状は,その当時とあまり変わらない。今も決して改善されたわけではないのだ。
 独立後は国連安保理による国連東ティモール支援団(UNMISET)が政府を支援していた。空港での入出国手続きもUN職員が行っていた。“UN”と書かれた車が走り回っていた。
 引き上げたUNだが,'06年4月以降の暴動による国の混乱で,国連東ティモール統合ミッション(UNMIT)が,再び派遣されている。
焼き焦げたマート

↑ 独立時には,大きな混乱があったが,独立後も暴動が起きている。ここには,マートがあったが,焼き討ちに遭っている。しかし,この下で逞しく物を売っている人がいるのだ。焼け焦げた建物の下で商売をしている人を多く見かけた。

焼け焦げた建物とトラック

↑ 焼け焦げた建物は,あちこちでそのままになっていた。修復する力もないのだ。左側は,焼き討ちを逃れたか修復したのかはわからない。

焼き焦げた民家

↑ それは,民家でも同じだ。あちこちに多数点在した。

ミクロレット乗り場

↑ 町中心部のミクロレット(ミニバス)乗り場だ。バスを待っている人も多いが,ただ立っているだけの人もいる。することがないのだ。

ディリの人々

↑ 仕事が無くヒマそうにしている若者たち。本当に,何もすることがないのだ。失業率は非常に高い。

ヒマそうな若者

↑ あちこちにペンキなどによる落書きがあったが,このように描いている最中の若者がいた。撮影すると,声をかけてアピールしてきた。

路上のマーケットで働く

↑ 路上マーケットで働く親子。しかし,暗さは全くない。

ディリの薬局で

↑ 薬局だ。店にいるのは,高校生の女の子2人。薬の知識が,どれぐらいあるのだろう?このときは,まだ学校は混乱後で長期間休業中であり,再開のメドが立っていなかった。「勉強したい。」らしいが,どうしようもない。
 この横には,インドネシア料理の小さな食堂があり,入って食べたが,小学生の女の子が店員として手伝っていた。前にいる女の子だ。この子も,やはり「学校へ行きたい。」と言っていた。


店番の青年

↑ 店番の青年。店には,ガソリン,オイル,ゾウリから食料品,ビール,タバコまで,なんでも売っているのだ。

ディリの子どもたち

↑ 決して暮らしは楽ではないのだが,どこまでも明るい子どもたち。後ろでは,親が暖かく見守っている。
ディリの親子

↑ 街角のこの親子は何を想う。お父さんは,遠いところから声をかけてきた。「俺たちは,負けてないぜ!」とばかりに指を立てた。

 今年に入ってからも,新政権発足などに絡んで混乱が起きている。まだまだ先行きの見えない状況にある。
 産業としては,石油・天然ガスなどの資源があるのだが,豪州による利権が絡んで思うようにいかないようである。
 輸出用としては,コーヒーの栽培に力を入れている。フェアトレードコーヒーが,日本の外食店などで取り扱われているのは,ご存じの方も多いだろう。
 
 幾度もの騒乱で,家を捨てたり難民になった人たちが多い。私が出会った多くの人々,明るい子どもたちは,今どこで何をしているのだろう?
 日本では,あまり知られていない国だが,今後の動向がたいへん気になる国である。

Copyright(C) 2007 Umekin. All Rights Reserved.

連載:アジアを行く 第1回から読む⇒

・ヤンゴンの長井さん射殺現場へ行く

ミャンマー(ビルマ)でデモ騒動が起き,日本人ジャーナリストの長井さんが射殺されてから,もう4ヶ月になる。今回は年末年始(つまり,3ヶ月後)に現場へ行ってきた。実際に自分の目で見たかったのと,今の現地の生の様子を知りたかったからである。


 ↑ 兵士が威嚇射撃していた場所だ。このときの映像は,世界中に流されている。この左向こうが,長井さん射殺現場だ。事件のときとは違い,ふだんは交通量がたいへん多い。人々も多く歩いている。なかなか思うように撮影はできない。



 ↑ まず,この画像は「ビルマ民主の声(The Democratic Voice of Burma)」(英語版→http://english.dvb.no/)から引用の画像だ。ビルマ人が,ノルウェーのオスロに拠点を置き活動している。国内では,検閲されて自由に活動できないからだ。ここのサイトには,今も当時の画像が置かれている。円内は長井さんだ。



 ↑ 同じ場所だ。店が開いており,露店もあるので,同じには見えにくいが,建物と看板見ればわかると思う。



 ↑ ロイター=共同から引用の画像だ。こちらは,拡大されている上に鮮明である。


↑ まさに,ここが現場だ。ご冥福をお祈りした。私がゆっくりと撮影していても,人々は知らん顔だった。あるいは,そこら中にいる秘密警察の目を恐れて知らぬ振りをしていただけかも知れない。知らぬ間に,私も公安に監視されていたかも知れない。
 実際に現場に立ってみると,なんとも複雑な気分になった。街は,いつも通りに忙しく動いているが,3ヶ月前には間違いなくここでデモ騒動があり,長井さんをはじめ多くの人々が犠牲になったり,刑務所送りになった。今も拘束されている人は多いと言う。



 ↑ 「ビルマ民主の声」に届けられた映像は,この陸橋から撮ったと思われる。陸橋と言っても,階段は片方にしかない。もし,兵士に見つかって上がってこられたら逃げようがないのだ。撮る方も命がけだっただろう。



 ↑ 歩道は,人々が多く行き交い,店が開き露店も並んで賑やかである。知らなければ,デモ騒動があったなど,想像もつかない。現場は,画像右側だ。



 ↑ 倒れた長井さんが運ばれ,VTRが回収されてしまった場所だ。この右向こうはバス停になっていて,屋台が多くあり,ここもやはり人が多い。



 ↑ ところ変わって,ヤンゴンの北へ約300kmの町,ピイ。バスで約6時間かかる。鉄道だと,8時間〜12時間ぐらいかかってしまう。
 ここには,ミャンマー3大パゴダの1つ,シュエサンドー・パゴダがある。ここで,ゆっくりとしていたが,ある僧侶が近寄ってきて話しかけてきた。私が日本人だとわかると「Mr.ナガイは知っているか?」と聞く。その後,軍の暴挙などを少し話した。どこに秘密警察がいるかわからないので,もちろん小声で一瞬だ。当時は,ここでも何か動きがあったようなことを言っていた。
 情報網が未整備な上に,検閲がかかるこの国でも,ちゃんとすぐに伝わっているのだ。



 ↑ ピイより,さらに14km行ったところにある,シュエダウン村。ギュウギュウ詰めのピックアップトラックで30分ほどだ。有名なメガネをかけためずらしい大仏があるが,ふつうはここしか見ない。しかし,私はこの村のあちこちを歩いてみた。小さな村だが,立派なパゴダがいくつかある。私にずっとついてきた子どもたちが,いろいろ案内してくれた。まあ,ここに外国人が来ることは滅多にないだろう。
 しかし,ここの寺院にいた人も「MR.ナガイを知っているか??」ときた。みんな知っているのだ。



 ↑ おまけに,その辺のふつうの家の人にも声をかけられて一休みすると,小声で「ナガイさんは…」と話しかけてくる。田舎と言ってもド田舎ではないが,こんな街外れの村のふつうの人々にも,ちゃんと情報が入っていることを知った。



 ↑ 再びヤンゴンの19th通り。夜になると,串焼きや生ビールの店が並ぶ通りだ。ここでは,多くのビルマ人が楽しそうに飲食している。路上ビアホールのようなものだ。外国人も時々いる。私は毎日通ったが,みんないつも楽しそうに飲んでいる。
 そこで,ある客に密かに聞いてみた。「ナガイさんを知っているか?」,「知っているよ!」…やっぱり知ってたか。「軍政をどう思う??」,「大嫌いだ!!」,「生活が苦しい…」等々…
 みんな思っていることは同じなのだ。

 私が帰国した後の1月上旬にも,以前から武装闘争を行っている反軍政組織のカレン民族同盟(KNU)によると思われる爆弾テロ及び未遂が数回起こっている。これは,僧侶たちが中心のデモ騒動とは直接関連はしていないと思われるのの,反軍政には違いない。まだまだ不穏な動きはあるだろう。一般人が傷つくのは,大問題なのだが…
 国際社会から批判され,注目されても変わろうとしない軍政。この先が思いやられる…
 長井さんや僧侶,市民たちのご冥福をお祈りするとともに,一刻も早い軍政の撤退と民主化を願っている!!

Copyright(C) 2008 Umekin. All Rights Reserved.

連載:アジアを行く 第1回から読む⇒

・ラオス人の宴会に参加

ラオスの人々はとにかく宴会が好きだ。
他に娯楽が少ないせいか、何かあるたびに近所の人々が大勢集まり宴会をする。

今回は、私が参加したラオスの人々の宴会の様子についてだ。01年12月、2回目のラオスだった。
私は、南部のサワンナケートという町のメコン川沿いを歩いていた。と、
ニコニコして話しかけてくる女の子がいた。

英語で「日本人ですか?」と聞いてきた。なんでも、日本語を覚えたいと言うことだった。
片言の日本語の単語を少し話せた。
話しが長くなり、「お茶でも飲みながら」という感じで、近くの小さな店に入って話を続けた。

話をしていると、女の子は大学生で、2日後に友だちの家で忘年会をするので、ぜひ参加してほしいと言う。
しかし、2日後は次の町へ行くつもりだった。
どうしよう??迷ったあげく、地元の人の行事に参加できる機会なんてそんなにあるもんじゃないと思い、
滞在を延ばして参加することにした。
サワンの友人の友人宅

↑当日、昼前にバイクで迎えに来てもらい、家へと向かった。
着いてみると、比較的広い庭に欧米人らしき人が3名いた。「んん??」何か怪しい雰囲気。
「まさか、何かの詐欺に引っかかるんやないやろなあ??」一気に緊張が走る。
他国では、賭博詐欺やいろいろな詐欺があることを知っていたので、いつでも逃げられるように、
出口などをしっかりと確認しておいた。

欧米人に聞いてみた。すると、みんな私と同じように街角で声をかけらたらしい。
2人の青年がオーストラリア人で1人の女性がアメリカ人であった。
話してるうちに、どうやらこの人たちは怪しくなさそうだと思った。
宴会の準備

↑ そのうち、ラオス人の人たちがどんどんやってきた。みんなで料理の下準備を始めている。
楽しそうにワイワイやっている。聞くと、大学の仲間や近所の友人らしい。大学の教授もやって来た。
「これなら大丈夫や!」と思った。ただし、まだ警戒は解かなかった。
宴会の準備_2

↑ 炊事場は、ガスではなく薪で炊いている。
サワンで宴会

↑ 待っている間、庭でラオラーオ(焼酎のようなもの)の回し飲みが始まった。
ラオスでは、宴会などでは基本的に自分で酒はつがない。
1人がみんなについで回り、つがれた人はまたみんなについで回るのである。それが延々と続く。

ビールは、たくさん飲まれるが、ラオラーオをたくさん飲む人は、あまりいないようである。
しかし、私は焼酎が好きなので、どんどん飲んだ。度数は強い。
宴会前に、すでにいい気分だった。
サワンで宴会_2

↑ 宴会が始まった。30人以上はいるようだ。恒例の回し飲みからだ。
ビールが、次々につがれていく。女の子たちは、やや遠慮気味だ。
あまり多くを飲めないようだ。
ビールの回し飲み

↑ しかし、ビール(酒)を回すこの習慣、自分のペースで飲めないのが辛い…
回ってきたら、すぐに全部飲まなければならないのだ。
それも次々に回ってくる。

よく見ると、女の子の中には、横に置いてある入れ物にそっと入れていたりしている。
外で飲んでいる子は、地面に捨てていたりもする。
私は、酒は好きだが、ビールは短時間に多く飲めない。
苦しかったオーストラリア人と、「好きなように飲めないし、しんどいなあ〜」、「これは苦しいね。」などと話した。
でも、ラオス人でもあまりたくさん飲まないラオラーオを1人でたくさん飲んだ。また酔いが回った。
宴会の料理

↑ 料理も、たくさん並んでいる。どれもおいしそうである。スプーンとナイフもあるが、ほとんど手で食べる。
サワンで宴会_3

↑ 宴会は、部屋の中だけでなく、外でもテーブルを出してやっている。
気がつくと、50人近くになっていた。
カラオケ

↑ 家のTVにVCD(DVDは、まだ普及してなかった)をつないで、カラオケも始まったサワンで宴会_4

↑ そのうち、音楽が流れはじめ、みんな陽気にダンスを始めた。大騒ぎになってきた。
ダンス

↑ ラオスでは、男性と女性が体を触れあったりすることはないらしいが、私は長時間、
酔いにまかせて手をつないで踊ったりしてしまった。
おおいに盛り上がった。とにかく乗りまくっていた私をどう思われたかは定かでない。
もちろん、踊ってばかりでなく、いろいろな人と話もたくさんした。
サワンで宴会_5

↑ 最後は、外で休憩し出す女性が多かった。
宴会は、6時間以上続いた。まだまだ続いていたが、夕方、終わらぬうちに数名で
郊外のタートインハン(寺院)へ行った。
参加していたトゥクトゥクのドライバーがただで乗せてくれた。お参りした後、町の食堂へ。
そこで、また食べて飲んだ。その後、写真館で記念撮影をした。
この日は、私にとってたいへん印象深い1日となった。
この後、何回かこの地を訪れることになるのである。帰ったのは、10時前だった。
サワンで宴会_C

↑ その後は、何度か私のために宴会を開いてくれた。その都度、近所の人々が集まり、大盛況だった。

サワンで宴会_B

↑ '04年の年末には、同じサワンナケートの町で、たまたま通りかかった見知らぬ会社で
忘年会&新年会をやっていた。
従業員に声をかけられ飛び入り参加することになった。

宴会は大好きだが、ふだんはシャイでたいへん温かいラオス人。
この素朴さをいつまでも持ち続けていてほしいと願っている。

Copyright(C) 2008 Umekin. All Rights Reserved.
連載:アジアを行く 第1回から読む⇒

・マニラ…貧困の人々

 いま世界中で,原油や食糧が大きな問題になっている。しかし,なんだかんだ言っても,日本は恵まれている。
日本にいるだけでは,世界の貧困は,いくらTVなどの報道を見ても実感しにくい。
私も,イラクやアフガンの様子や各国の難民などの本当の苦しさは,わかったつもりにはなれても,全くわかっていない。

 さて,今回はフィリピンだ。あちこちにスラムは点在する。
ごみの山を糧に生活する人々が住む「パヤタス」が有名だが,そこまで行かなくても,ふつうに町を歩き回っているだけで
苦しい生活を感じることができる。
知らず知らずのうちにスラム地区に入っているかも知れない。
SMシューマート

 ↑これは,マニラ首都圏のケソン市。大きなショッピングモールの中には,楽しそうに買い物をする家族,
友だち同士で歩く若者や子どもたちが多くいる。
日本のそれと,ほとんど変わらない光景だ。日本で言えば何千円ものお金を支払っている家族連れもいる。
現地の物価からすると,かなり高い。
物乞いの人

 ↑しかし,その一方で貧しいくらしをしている人が大多数ということも確かなのだ。
 この人は,そのショッピングモールへ行く途中の陸橋にいた人だ。ほかにも数名がいた。
明らかに病気にかかっている人もいる。生まれつきの障害を持った子を抱えて物乞いをする親子もいる。
早く専門の医者に診てもらわないと…と思うのだが。

ケソン市の住宅
 
 ケソン市にある住宅の一角だ。トタンの屋根が続く。LRTから見える。
ケソン市の住宅2
 ↑その一角に行ってみる。昼間から多くの人々の姿が見える。いかにも手作りの質素な家が並ぶ。


 ↑排水は,大丈夫なのか??

物売りの子
 
 ↑その近くの大通りでは,子どもたちが物を売り,お金を稼ぐ。稼ぐと言っても微々たるものだろう。
周辺国でもそうだが,大人よりも子どもたちの方がよく働く。

キアポ地区の住宅
 
 ↑マニラ市キアポ地区にあるアパートというか集合住宅。前の道路では,昼間から多くの人々の姿がある。
子どもの姿も多い。大人は仕事がなく,子どもは学校へも行けないといったところだろうか?

キアポ地区の住宅2

 ↑川が増水したら,どうなるのだろう…それでも,生活しているのだ。

ロメロ・パパ駅横の住宅
 
 ↑LRTロメロ・パパ駅近くの家。中は,いったいどんな造りになっているのだろう??

タユマン駅付近の住宅
 
 ↑タユマン駅近くの住宅地。川への垂れ流しで悪臭が漂う。住民は,臭いに慣れてしまっているのだろうか?
 すぐ西は,スラムが広がるトンド地区になる。スラム地区には,興味本位で行くところではない。

階段で寝る子
 
駅の階段で寝ている子。こんな光景は,あちこちで見られる。

チャイナタウンで
 
 ↑チャイナタウン近くを流れるパッシグ川沿いで。死んでいるのではなく,寝ているだけだ。

パッシング川沿いの人々
 
 ↑その近くにいた人々。生活は決して豊かではないが,明るい笑顔なのだ。
チャイナタウンの売り子
 ↑ビノンド地区の路上マーケットでは,子どもが立派に店番をしている。

 人々は,苦しいながらも明るく元気に生きている。でも,まさにその日暮らしだ。ちょっとしんどくなると
すぐに文句を言う日本人の若者に見せたい。

 私は,専門家ではないので誤述があるかも知れない。本当に詳しいことを知りたければ,NGO・
NPOなどの関係機関に訪ねればいいと思う。

Copyright(C) 2008 Umekin. All Rights Reserved.